父の勝ち

今日は備忘録として父のことを書きたいと思います。

1月25日くらいから熱はないものの風邪をひいたかなぁと近くの内科にかかって風邪薬を服用していたのですが、一向に良くならず、1月31日金曜日に母の付き添いで少し大きな病院に診てもらったところ心筋梗塞の疑いがあるとのこと、そこの病院から処置の出来る大きな病院へ救急搬送されました。よく事情がわからないまま入院の準備をして兄と病院に向かいました。

その日は少し風邪が長引いているなぁという感じでしんどそうではありましたが、そこまで深刻なこととは気づかずに、父は予約の時間までにまだ余裕があったので餡を炊くなど仕事を終わらるくらい元気だったし、救急車にも自分で歩いて乗って行ったのですが…

 

救急搬送された先では、容体がかなり悪く、カテーテルでの手術をしようにも血小板の数値が極端に低いので、大量出血すると危険とのこと、土日安静に過ごして月曜日から検査等これからの処置を検討し、10日を目安に退院と聞いていたので安心してその日は帰りました。

次の日、お昼に病院に行ったところ、管につながれていてトイレも一人では行けないと不満を口にしていましたが、私に「悪いな、悪いな、もうすこし頼むな」と言って、気をつけて帰りやとベッドで寝ながら見送ってくれました。

翌日の日曜日はケータイを持ってきて欲しいと連絡があったので母と兄が行った時、温かいコーヒーを持って行くと美味しいと飲んでいたそうです。ただ、やはり管に繋がられているのが嫌なようで早く帰りたがっていたようですが、ワシがいなくてもご馳走食べたらいいんやでと帰りがけに声をかけて送り出されたそうです。

翌日の2月3日、仕事帰りの3時前に私が行ったのですが、トイレ行くのも酸素ボンベを携帯して、ヨタヨタしながら歩いていて、私に一言「もうあかんわ」と言ったので、これから検査して治療したらよくなるから大丈夫やでって言ったのですが、つらそうでしたので温かいお茶を買って飲ませ、寝かせてその場を離れました。

 

その日の夜の事です。

我が家では節分なので入試から帰宅した息子を待って恵方巻を食べ、鬼の面をかぶった娘につきが吠えるのをみんなで笑って見ていたのですが、6時半ごろに父の携帯から実家の母に電話があり、今上賀茂神社の横にいるから出てきて欲しいとのこと、あの状態で病院を抜け出せるはずもないので、おかしいと思いお店を閉めて7時頃母と兄と私とで病院に向かいました。

病室に着くと父の姿はなく、ナースステーションに行くと車椅子に座る父がいて、病室まで戻りました。なんでも立てないのに立とうとしたり、電話をかけたいのにかからないと訴えていたらしいです。

病室で私たちの顔を見るなり「遅い!」と大きな声で叱られました。そしてベッドに横たわってすぐに咳がとまらなくなったので処置が終わるまでと私たちは病室から出され、談話室で待つ事になりました。会って少し話して病室から出されるまでほんの5分程度でした。

その後30分待っても声がかからず、着替えたりトイレに行っているのかなとしか思ってなかったのですが、担当の先生から別室に呼ばれ、大変危険な状態で、延命措置を望みますか?と聞かれました。私たちは状況を把握できず、説明を聞くと、咳をした時に肺胞から出血していること、血小板が少なく出血が止まらないこと、すでに血圧が40台まで低下していること、心臓マッサージをしたら肋骨や肺を傷つける可能性があること、すでに脳には酸素がいってない状態なので延命装置をつけても長くはいられないことを告げられました。

少しでも長くいて欲しい気持ちでいっぱいでしたが、その時の状態は息が出来なくて水の中で溺れているような感じかもしれませんと言われたので、苦痛がない選択をと延命措置はせず自然に任せることにしました。

説明後、父のもとに行くとすでに血圧も14まで低下し意識もありませんでしたが、すごく穏やかな顔をしていました。すぐに子どもたちを呼びましたが、待たずに10分程で息を引き取りました。

亡くなっても聴覚だけは最期まであるときいていたので、みんなで感謝の気持ちを伝えました。

短気でせっかちな父らしく、あっけない最期でした。

 

後になって考えてみると、秋くらいから実家の外壁を塗り直したり、業務用の冷凍庫やボイラーを買い替えたり、10月末には母の実家のお墓参りに行って親戚回りをし、12月には施設にいる父の姉に会いに行ったり、無意識のうちにやるべきことを済ませていたのかもしれません。それに最後の電話で上賀茂神社にいるって言ったのが不思議でしたが、そこは母と結婚式をあげた神社なので、最後魂がそこに行っていたのではないかなぁと想像してみたり。全て落ち着いてから父のケータイの発信履歴を見たら実家の下4桁だけ入力した履歴がその日の6時すぎから20回くらい残されていました。きっと自分の死期を悟って何度も電話をかけようとしても届かず、看護師さんに番号を押してもらい、私たちが到着するまで待っててくれたのだと思います。

 

いつもせっかちで仕事に厳しい父の無茶振りにしんどく思ったり、反論すると3倍になって叱られてしまうので、父の言うことをいい加減に聞くこともあったし、嫌悪感を抱くことも正直ありました。

でもこんなにあっけなく逝ってしまうなんておもってもなかったので、今父にはもっと優しくしてあげたら良かったとか、もっと色々教えてもらったら良かったとか、反省と後悔ばかり。そして不思議と思い出すことは全ていいことばかりで、感謝してもしきれない父の存在の大きさだったりします。いつもワシの言うことは聞かんなと怒っていた父の圧勝です。

亡くなる4日前までしんどいのを我慢しながらも仕事していた父、最後まで自分の足で立とうとしていた父、最後まで厳しい中にも優しかった父、本当に私たちになんの手を煩わすことなく潔く逝ってしまった父…きっと病院で仕事も出来ず、管に繋がられ、トイレも自由に行けない情けない姿を見せるのが嫌で、はやくみんなのいる家に帰りたかったのだと思います。

いつか祖母の法事の際にお坊さんが、親は最後自分の死をもってその生き様を子どもに教えるのですよ…とおっしゃっていましたが、失くしてからその大切さを知るものだと身を持って教えてもらいました。

いつでも、誰に対しても誠実に、一生懸命に、後悔のないように…

 

覚悟する暇なく急いで逝ってしまい、今も信じられない気持ちがありますが、生涯現役で仕事が出来、母と兄と私も一緒に仕事して、5人の孫と楽しく過ごすことが出来たのは父には幸せなことだと思います。

仕事ばかりの人生でしたので、これからはゆっくりやすんで欲しいのですが、せっかちで寂しがりやの父のことですのでまたすぐに生まれ変わってどこかで会える気がします(笑)